スタンフォード大学でのスピーチ(2005)
2008年12 月 2日 (火)
上田紀行さんがスタンフォード大学で教えていらした時の報告。
上田さんからご許可をいただいています。
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ダライラマのスタンフォード訪問報告
2005年も押し詰まって参りましたが、皆さまお元気でお過ごしでしょうか。
こちらは、やっと秋学期の講義も今月初めに終わり、やっと休暇に入りました。
講義はたくさんのエネルギーを傾けることとなりましたが、得るものがとても大きく、ほんとうに良かったと思っています。
講義の最終回は学生の出席がいつもとても少ないとのことでしたが、ほとんど全員が出席でした。
仏教のことをほとんど知らない学生がほとんどだったのに、毎回の課題論文や講義とディスカッションの積み重ねで、最後には仏教と社会変革に関しての高度な議論が交わされ、感動しました。
それとともに、こういった講義は日本でこそ為されなければならないのに、という思いも強くしました。
こちらはクリスマスが最大の年中行事。
ところがクリスマス前1週間くらいから、毎日雨模様の天気となり、気温が上昇し(最高18度、最低9度くらい)、感覚としては「梅雨のクリスマスシーズン」といった感じで、「西洋のクリスマス」らしくもなく、「カリフォルニアのクリスマス」というイメージでもなく、何だこれは?でした。
今はこちらは雨期ですので、これが普通なのですが。
幸い、クリスマスイブの日は一転して晴天となり、ほんとに気持ちのいい日となりました。
さて、今年起こったことで、一つご報告を忘れていることがあることに気づきました。
ダライラマのスタンフォード訪問〉です。
来年になってからのご報告では間が抜けていますので、もう一ヶ月半も時間が経ってしまいましたが、今年中にご報告をいたします。
さて、ダライラマのスタンフォード訪問は、今年のスタンフォード大学の行事の中でも最大のものでした。
こちらでのダライラマの人気はものすごく、二回の半日セミナー、それプラス一日セミナー、合計3回のセミナーのチケットは、入手困難を極めました。
学内スタッフへの優先売り出しはあっという間に売り切れ、私も一般の売りし日にコンピュータの前に陣取って購入しようとしたのですが、開始後2時間はサイトにつながらず、つながったときには既に最もいい席は売り切れで、何とか後ろのほうの席をゲットしたという次第です。
今回のダライラマのスタンフォード訪問は、〈スタンフォード大学・アジア文化宗教イニシアティブ〉(アジアの宗教と文化を研究・教育するための、学科を超えた組織)の中に、〈チベット研究イニシアティブ〉が創設されることになり、その記念として行われたものです。
上記のアジア文化宗教イニシアティブ、仏教学研究所のほか、スタンフォード大学医学部、宗教生活オフィスほかの主催で行われました。
スタンフォードでのプログラムは二日間で、以下のようなものです。
11月4日
9時半―11時半 瞑想と講義 大体育館
12時―2時 ランチ・レセプション
2時半―4時半 非暴力の心(核心) メモリアル教会
11月5日
10時―4時半 渇望、苦悩、選択:人間体験に関する霊的・科学的説明
(仏教と脳科学の対話) メモリアル講堂
私は上記のうち、11月4日の「瞑想と講義」「ランチ・レセプション」、
11月5日の一日セミナーに参加しました。
このセミナーの中でいちばん問題をはらんでいて、その後議論を呼び起こした
のは、私が参加しなかった「非暴力の心(核心)」だったのですが、その点については最後にご報告することとして、まずは時間順に追っていきましょう。
まず大体育館で行われた「瞑想と講義」ですが、まずは詰めかけた人数にびっくり。
7500人収容の体育館が満員です。
後ろのほうのチケットしか取れなかったので、スクリーンでダライラマのご尊顔を拝することとなりましたが、この席でも35ドル(4000円)。
周りを見回せば、学生たちの多いこと。
ダライラマはこんなに若者に人気があるのか・・・。
驚かされました。
さて、私はダライラマの講演を聞くのはこれが3回目です。
これまでの2回はインドでしたが、アメリカでどのような語り口をするのかが興味あるところでしたが、なるたけ英語で語り、複雑なところのみ通訳を介するという方式での、これまでのダライラマの温かく、明快で、フランクな語りは変わるところがありませんでした。
また、会場が若い人たちで埋め尽くされているのを見て、ダライラマも「若い人向け」の方向性が強かったように思えます。
どんな宗教に属していようが、西洋、東洋であろうが、誰もが幸せを望んで生きている、そこに何の違いもない・・というメッセージから開始されたこの講演は、ダライラマの大らかさが何よりも目立ったセミナーとなりました。
そこには「世界は良きほうに向かっている」という明るい認識がベースにあります。
以前は誰も人権とか環境とかに目を向けていなかったが、今はそうではない。
明らかに世界は良きほうに向かっているし、それは人類がこれまで苦悩に立ち向かってきた結果によるものだと、歴史をポジティブに捉えます。
その中で、私たちの認知がネガティブな感情によって歪められ、世界のリアリティーを捉えられないことから不幸が生じるとして、知識の習得の教育だけではなく、自分自身の心を知ることが必要だと説きます。
お金があって、権力があって、素敵なボーイフレンド/ガールフレンドがいても、それが人生の幸せを保証しない。
自分の心の平安を知らなければ・・・。
そして、無知に基づく、執着や嫉妬、怒りといったネガティブな感情ではなく、慈悲や愛情、許しといったポジティブな感情から世界を見ることが必要だ。
それは仏教に限らず、全ての宗教が共有している価値である・・・。
こう書くと、実に当たり前の話なのですが、そこはダライラマ、温かく大きなエネルギーがユーモラスな語り口の中で放射されてくるので、若者たちのハートにもダイレクトに届いていたように思われました。
面白かったのは「瞑想」の位置づけ。
アメリカをはじめとして、西洋人にとって、仏教とは瞑想であると考えている人が多く、それ故に日本仏教のお念仏などは理解されにくいのですが、ダライラマは「瞑想」に対する過度の信仰を諫めます。
「怒りから解放され、心の平安を得るといって瞑想している行者の邪魔をすると、「何で邪魔をしたのか」と怒り出す。
これじゃあ瞑想の成果はない」と聴衆を笑わせた後、「私とは何か」といった抽象的なことを問う瞑想ではなく、具体的に怒りが発する情景を思い浮かべたり、戦争や饑餓や天災で苦難に貧している人たちの姿を思い浮かべたりしながら瞑想する、「分析的瞑想」を薦めます。
そして、「皆さんにとっては20分でも長すぎる。私だって15分経つと体が痒くなってきたりするから」と、何と瞑想は5分間だけ!
「瞑想と講義」というタイトルのセミナーですから、瞑想好きの人たちは30分くらいは瞑想すると思っていたでしょうに・・・。
しかしその5分間は7000人の聴衆が静寂の中で様々な思いをいだいた、素晴らしい時間になりました。
次の日に行われた一日セミナーは、医学部の主催でした。
これはたいへん大がかりなもので、午前と午後の部とも、5人の自然科学者、3人の仏教学者、そしてダライラマが壇上に上がり、午前中は「渇望(渇愛)」について、午後は「苦」について、脳科学と仏教の双方の見解を統合していこうというもの。
このテーマだけ聞くと、ものすごくエキサイティングで、時代の最先端を予見させるものなのですが・・・、しかし現実はちょっと議論が噛み合わないという印象を強く残したものとなりました。
午前午後ともまず脳科学者からプレゼンテーションが行われました。
例えば「渇望」について、脳のある部分の脳内物質の分泌異常がアルコール依存を引き起こしていると説明します
。
しかし、仏教の「渇愛」は、諸行無常で移りゆくものに対して執着してしまうといった哲学的、実存的地平のものですから、その間のギャップを埋めるのはまだまだ難しい。
議論が進むにつれ、ダライラマ自らが「私はこの議論に混乱している」と述べ、そのときに会場がいちばん沸いたということが、この場を物語っていたように思えます。
もっとも、私の座った席が非常に音響が聞き取りにくい席で、なおかつ10人もの人間が次から次へと、それもあるときは脳内物質、あるときは仏教の深淵について語るわけで、さすがに話の流れをつかみ損なったところが多々ありますので、もう一回聞き直せば印象も変わってくるのかもしれません。
いずれにしても、仏教は渇愛、執着、苦、煩悩といった人間の実存的な問題に関して2000年以上もの間、思考と実践を積み重ねてきたわけで、いくら脳科学が近年大きな進歩を見たとしても、まだまだそれが人間の実存のレベルに到達するには難しいのではとの印象を持ちました。
このセミナーもたいへんな人気で、1000人あまり収容の講堂は満員。
チケットも日本円で1万円くらいすることを考えると、すごいです。
ランチタイムに一緒のテーブルに座ったご夫婦は東海岸のボストンからこのためにアメリカを横断(片道4300キロ!)、
80歳のおばあちゃんとその娘もデンバーから飛んできていて、びっくりしました。
さて、今回のダライラマの訪問で、後からいちばん話題になったのは、「非暴力の心(核心)」という半日セミナーでした。
仏教は西洋においては「絶対的非暴力主義」として捉えられることが多いように思います。
十字軍などの戦争を引き起こし、異世界を制圧してきた歴史を持つキリスト教、その「伝統」がブッシュ政権にも受け継がれてきている中で、絶対的非暴力主義としての仏教に人々の大きな期待が集まっているわけです。
そして、現代仏教の指導者のひとりであり、ノーベル平和賞受賞者のダライラマが「非暴力」の核心を語るとなれば、人々の期待はいやが上にも高まるところです。
私はこのセミナーに参加していないので、ビデオを見てみました。
聞き手は、スタンフォード宗教生活オフィスの長にして、牧師でもあり弁護士でもあるスコッティ・マクレナン教授でしたが、冒頭から問題の核心に迫っていきます。
仏教は非暴力主義を取るが、家族が襲われたような時にも、正当防衛としての暴力の行使はあり得ないのか?」
ダライラマの答えは、「正当防衛はあり得る」。
非暴力とは現実に暴力が行使されているのかどうかよりも、その動機において暴力性があるのかどうかが問題なのだ。
だから、愛情に満ちた学校の先生や親が、生徒や子どものためを思って厳しくしつけるのは正しい。
マクレナン教授はさらに続けます。
「キリスト教においても、暴力の行使については三つの教えがある。
第一には十字軍的な制圧。
これは現代では否定される傾向だ。
第二が、正義の戦い。愛を持ちつつも、暴力に対して正義を持って戦う。
第三が絶対的非暴力主義で、一切の暴力の行使は行わない。
仏教はどの立場か?」
ダライラマは、第二の正義の戦いに寛容な立場を取ります。
自分の中の憎悪や暴力性に気づかないで、相手に勝利すれば問題が解決すると考えるのは間違いだ。
しかし、現在存在している暴力を小さな規模のうちに止めておかなければ、更に大きな暴力が発生するだろうということを見通して、慈愛の心を持って、初期の段階で物理的な手段を使って暴力を止めるのは、非暴力的な動機に基づくものだから容認できる、というのです。
しかし、戦争の是非に関しては、現代のグローバル社会は昔の社会とは異なり、一見敵と見える人も実は私とつながり合っている一体であり、それゆえ敵に戦争をしかけて勝利しようという戦争の論理はもう時代遅れのものだ、と戦争の有効性には否定的な立場を取ります。
「では、アメリカのイラク戦争に関しては、正義の戦いとして容認できるのか?」とマクレナン教授は突っ込みます。
その答えは「まだ情勢もはっきりしていないし、歴史的な評価が定まっていないので、何とも言えない」。
「第二次世界大戦は、後から振り返れば、民主主義と自由を守った戦いとして評価できる」「朝鮮戦争も私は自由を守る戦いと思ってきたが、韓国人の弟子はそう思っていない」「そして、同じような戦争でも、ベトナム戦争はまったくの誤りだったと断定できる」
「このように、戦争だから悪というのではなく、戦争も全体的な状況の中で評価をしなければいけない」
「しかるに、イラク戦争に関しては、まだ全体的な状況が明確でないので、何とも言えない。判断にはあと数年かかるだろう」。
この発言は、私の周りの仏教学者やガンジー研究者や平和運動家たちに衝撃を与えました。
この立場をはたして「非暴力主義」と呼べるのかどうか、ということです。
十字軍」と口を滑らせたりする大統領の専横的政策に苛立ち、反対している人にとっては、ここでダライラマにはガツンと「この戦争は間違っている」と言ってほしかったはず。
それゆえ、失望感も大きかったと言わなければなりません。
しかし、ダライラマはこの後、彼の「現実主義」の立場を明らかにしていきます。
例えばガンジーの断食も「社会的な効果のあるときをねらって行っていた」。
だから宗教的信念があるからといって、断食で命を落とすのは間違っている。
命を長らえて、その分有益な活動を継続すべきだ、といったように。
マクレナン教授は通常なら聞きにくい質問をどんどん投げかけます。
「しかし、ベトナム戦争では結局民族解放戦線のゲリラ作戦が成功した。
チベットでも試みようと考えないのか?」
「ダライラマがチベットに戻るべきだと主張している人もいるが、戻らないのか?」
穏やかな顔をしていながら、恐れを知らぬインタビュアーです。
これらの質問に関してもダライラマは、「まずわれわれの原理は非暴力だ」と述べた後に、「しかしゲリラ戦をやろうにも、武器を運び込む経路もない。
そして中国軍に死傷者がでれば、その分チベット人への報復もある。
無益だ」「80年代にチベットに帰ろうと中国政府と交渉したが無駄だった。
現在は、チベットの地域的問題にこだわるよりも、世界全体がチベット問題を見守ることと、中国政府が民主主義的になることがひいてはチベットのためにもなる。
だから私がチベットに帰国すればいいというものでもない」と非常に現実的な応答を行います。
ダライラマのこの現実主義的な思想と行動は、極端に走ることを諫めるという「中道」の教えとも言えるでしょう。
そして、「極端な理念」「極端な行動」が「現実」から乖離したものとなりがちであり、常に現実を直視するという仏教の教えとは異なるものだと言っているかのように聞こえました。
このダライラマの立場にはもちろん賛否両論あることと思いますが、「世界は良き方向に向かっている」というポジティブな世界観が、この現実主義を支えているように思われました。
さて、長くなってしまいましたので、最後に私がもっとも感銘を受けた場面に短く触れて終わりにしたいと思います。
それは一日目の昼に行われたランチ・レセプションでした。
スタンフォード大学の同窓会館(すごく豪華です)で行われた200人規模のレセプションには私も招待されていたのですが、和やかに食事会が進む中、最後にダライラマのスピーチが行われることになりました。
そのスピーチの前に、これまでチベット亡命政府のアメリカでの活動の中心であり、新設される〈チベット研究イニシアティブ〉の代表となるテンジン氏がダライラマの紹介役としてマイクの前に立ったのですが、万感胸に迫るものがあり、途中からは涙が溢れてきて、もう言葉になりません。
これまでの苦難と、そしてスタンフォード大学にチベット研究部門が創設され、そしてダライラマを招くことができたという感激がいちどに押し寄せたのでしょう。
温厚なテンジン氏の感涙にむせぶ姿は、まさにこれが単なる訪問ではなく、歴史的なものだということを物語っていました。
そして、それを受けたダライラマのスピーチも、思いやりと、未来への希望に溢れた、私たちの勇気をかき立てるものだったのです。
伝統的宗教としての仏教ではなく、まさに現代を生きる(あるいは生きざるを得ない)仏教の姿がそこにはありました
。
前日にインドから日本経由でスタンフォード入りし、すぐさま二日間の過密日程をこなしながら、まったく衰えることのない活力と思考力を持続する「人間力」にも感嘆しましたが、さまざまな問題を包含しつつも、しかし同時代に生きる者の視点から仏教を説き続けるダライラマの姿は、やはり大きなインパクトを与えるものだったと言えるでしょう。
そして、このような催しを成功させてしまう、スタンフォード大学の底力(マンパワー、経済力、ネットワーク力)もあらためて痛感させられた二日間でした。
短いご報告のつもりが、長文になってしまいました。
どうか良いお年をお迎えください。
上田紀行
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最後の方に紹介されているテンジン氏こそが、
チベット100人委員会(日本のそれとは別組織です)の会長で、
ダライラマ財団の事務局長、Darlene Marcovich さんとふたりで
The Missing Peace を発案・創立させた方です。
「ミッシング・ピース 東京展」のオープニングにも駆けつけてくださり、
お祝いしてくださいました。
上田さんのこのレポートを読んで、この時のテンジンさんの心を思いました。
ひとり、アメリカ、カリフォルニアで奮闘し、チベット亡命政府を樹立・運営し、
ご自身がスタンフォード大学の教授となり、チベット研究の学部を創立させ、
ついに、
ついに、ダライラマ法王その人をお迎えしたのです。
この時のテンジン・テトンさんには無上の喜びがあふれていたことでしょう。
こんな瞬間に立ち会ってみたかった!
上田さんのレポートのおかげで追・疑似体験ができました。
それにしても、
「非暴力と言っても、例えば、家族が襲われているとしたらどうするのか?」
こんな迫力ある質問が出るなんて、すごいっす!
瞑想は5分!というのも、納得。
ありがとうございました。
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上田紀行さんの本を読み続けています。
がんばれ仏教!
「生きる力」としての仏教
かけがえのない人間
生きる意味
覚醒のネットワーク
「スリランカの悪魔祓い」などまだ読んでいない本がたくさんあるので、
楽しみです。
The Missing Peace を発案・創立させた一人テンジン・テトン氏のことを初めて知りました。
あの動画を作る前に知っていたら、もっと気持ちを込めて作れたなぁ~と追想しています。
気軽にキーボードを叩けない重みを感じています。
投稿情報: や ま だ | 2008年12 月 3日 (水) 16:39